歴史は古く、明治時代から「お講」という名で親しまれていました。
毎月10日の午後1時30分から、約2時間ほど。
親鸞の著した『正信偈』をテキストにして、
現代を生きる人間の問題について、
親鸞はどう教えているのかをたずねています。
会費は年間2000円。その都度、お賽銭など。
会員のお方には、毎月はがきで案内しております。
月によって日時を変更することもありますので・・・
 
第9回 正信偈ミニ解読
松寺同朋の会2012年11月号

十二光仏・光炎王仏

■三塗の黒闇
ごんげはん 「この光炎王仏については、親鸞聖人は和讃の六首目に、 「仏光照曜最第一 光炎王仏となづけたり  三塗の黒闇ひらくなり 大応供を帰命せよ」 と讃嘆されています。 」
ばあちゃん 「阿弥陀様の光明が比較にならないほど、すぐれたはたらきをもっている といわれても、このわたしと、どんな関係があるがでしょうか。 」
ごんげはん 「皮肉なことだが、光に出会うと極楽を夢みてホンワカ暮らしている私たちに、今まであたりまえのこと、しかたないこととしてきた生活の現実が、つまり三塗の黒闇という、時代社会の在り方、人間の在り方が、悲しみ悩むべきものとして自覚されてくるということが、起こってくるわけです。」
ばあちゃん 「「三塗」ちゃなにけ。」
ごんげはん 「「塗」という文字は、泥という意味の文字だが、途(みち)とか道と同じ意味です。今は、地獄・餓鬼・畜生の三悪道をあらわす言葉ですね。」
ばあちゃん 「「もたいない」とか「ありがとう」という心が失われた世界ですね。」
ごんげはん 「それに「ごめんなさい」という言葉がない、互いに自己主張して、互いに他の存在を無視して排除しあうことばかりしている世界ですね。」
ばあちゃん 「寂しい世界やな。結局は弱肉強食ですね。」

■孤独
ごんげはん 「弱者はもちろん強者もまた最後は孤独です。源信僧都の『往生要集』に、「我今帰するところなく、孤独にして同伴無し」という有名な、地獄に堕ちたものの嘆きが書かれています。「ごめんなさい」ということばを失って生きてきた者の行きつく世界が地獄です 」
ばあちゃん 「テレビのニュースなんか見ていても、国と国がこの「ごめんなさい」という心があれば、どんなにか平和でしょうね」
ごんげはん 「それにたいして「ありがとう」という言葉のない世界が餓鬼です。「ありがとう」と頂く心がないとき、人の心は、ちょうど底のない袋のようなものとなって、どれだけのものをそこに入れても、満たされることがない、もっともっと、あれこれと求めつづけ、不満ばかりで心貧しくなってゆく。」
ばあちゃん 「それに、畜生というのは傍生(ぼうしょう)ともいうと聞いたことがある。」
ごんげはん 「よく知っているね、つまり傍らに生きる、他者にもてれかかって、自分で努力し、責任を持つことがない、要求ばかりしている甘えん坊のことやな。      ちょうど甘やかし放題に育てられた子どものように、自分の欲望を抑えることを知らず、与えられて当然、与えられないとわめき散らすわけ。 」
ばあちゃん 「ああ、耳が痛いな。」
ごんげはん 「仏の智慧の光に自分の心が照らされてみると、「私には常識もあるし、人さまに迷惑もかけず、真面目にちゃんと生きているつもり」が、いかに自己本位の恥ずかしい愚かな生き様だったかと、気づかされる。逆にまた、そのことのためなら、喜んでわが身を投げ出さずにおれない、供養せずにおれないまったく新しい自分が誕生するときでもあるのです。」
ばあちゃん 「わずか「三塗の黒闇」という五文字やけど、深い味わいがあるのやな。」
 

第8回 正信偈ミニ解読
松寺同朋の会2012年10月号

十二光仏・無碍光

■光雲
ごんげはん 「この無碍光の徳が、和讃の4首目の「光雲無碍如虚空」とうたわれる。」
ばあちゃん 「お内仏の正面右側に「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号にも無碍光というお言葉がありますね。 」
ごんげはん 「よう気づいたね。その「尽十方」の徳を「光雲」といわれる。」
ばあちゃん 「つまり仏様の光明のはたらきが、大空にたなびく雲のように、あまねくゆきわたっているということでしょうか。」
ごんげはん 「ふつうはそのように読みとるのが正しいのだが、「ひかり、雲のごとく」とね・・・しかしある先生は「あくまで光雲と読みたい」といわれる。」
ばあちゃん 「光雲というのは、たとえば大空全体を覆いつくしている雲が、朝日をうけて、光り輝いている状態のことですかね。」
ごんげはん 「雲は無数の水滴の集まりやけど、その水滴の一つひとつが光をうけて、キラキラと輝いて、全体が光雲となって、見上げている人を包み込んでくるという、深い感動が込められておるという意味です。」
ばあちゃん 「なるほど、そこには長い間、迷いの闇夜を流転してきた苦しみから、はじめて解放された歓びが満ちているのですね。」

■無碍
ばあちゃん 「ところで無碍というのは、一路平坦でなんの障害もないということですけ。仏様の光にあうと、人生に挫折などなくなってしまうというか。」
ごんげはん 「とんでもない。この世に生きているかぎり、妨げのない歩みなど、あるはずがありません。この間も、8年もの間、寝たきりの母親を看病している娘さんが、「心の底で、早く死んでほしいと願っている自分に愕然とした」といって涙ぐまれたことがあった。」
ばあちゃん 「隣の爺ちゃんやけど、長患いから早く解放されて楽になりたい、周りに迷惑ばっかりかけて申し訳ないとグチってばかりですわ。」
ごんげはん 「長寿社会の悲劇は」深刻ですね。ピンピンコロリというわけにはいきません。いったい、何のための長生きなのか、長生きして何をしたいのか、死なんから、ただ生きているだけなのか、人生の願いが曖昧なのです。」
ばあちゃん 「人生を貫く願いを明らかにするために、仏さまの教えを聴聞するのですね。」
ごんげはん 「教えを書いたのがお経ですが、「経」は縦糸という意味の漢字ですね。つまり仏様の教えは、人生の縦糸を明らかにするための教えですね。縦糸がピンとしっかり張ってないと、いくら綺麗な横糸を織り込んでも、ヨレヨレの作品にしかなりません。」
ばあちゃん 「ああ、そうか、人生を貫く縦糸の前には、どんな挫折や苦労も、安心して苦労できる道になるということですね。」
ばあちゃん 「そうです、仕方なしにイヤイヤ苦労するのではなしに、安心して苦労できる道です、ぜんぜん方向が違う。」
ごんげはん 「無碍とは安心して苦労できる道のことですね。」
 

第7回 正信偈ミニ解読
松寺同朋の会2012年9月号

十二光仏・無辺光

■世界を担ってたつ
ばあちゃん 「無辺というのは、どういうことですけ。阿弥陀様の光はどんな世界にも及んでいるということでしょうか。 」
ごんげはん 「はい、仏壇にお参りしているときとか、お寺参りという宗教的領域だけで はなしに、人間の生活のすべての事柄が、仏縁として照らされいくとい意 味ですね。都合のよい順縁だけでなしに、悲しい逆縁もまた、仏縁として転 じられていく働きが、無辺光の働きといってよいでしょう。 」
ばあちゃん 「とはいっても、思いがけない災難に出遭うたら「神も仏もあるもんか」と 逆に神仏を愚痴りますね。 」
ごんげはん 「いくら愚痴っても現実はビくともしません。無辺というのは、どこにも隅っこがないということです。隅っこがないということは、、すべてのものが主たらしめられる、つまりその世界の中心に招かれて、その世界を担うものになる。隅っこで小さくお客さんになっているのではありませんね。」
ばあちゃん 「ある先生が、お浄土に往生するというても、浄土のお客さんになるので はないぞ、浄土を建立された如来様のお仕事のお手伝いをするのですと、教えていただいたことがあります。 」
ごんげはん 「はい、浄土に往生するというと、極楽ゆきのキップを貰って、浄土で昼寝でもするように受け取りやすいが、一人ひとりが如来様の仕事を担うのです。」
ばあちゃん 「「どうせ私なんか凡夫だから」と甘えておれませんね。」

■平等覚
ごんげはん 「この無辺光の徳をうたわれた和讃が、「解脱の光輪きわもなし 光触かぶるものはなし 有無をはなるとのべたまう 平等覚を帰命せよ」の二首目ですね。」
ばあちゃん 「へえー気づかんかったわ。平等覚というと、男女平等とか人権の尊重という意味でしょうか。」
ごんげはん 「男女とか身分とかにとらわれて、私たちはなかなか平等に出会えないのですが、胸を張ったり、卑下したりしてね、そうではなく、どんな人とでも平 等に出会っていける智慧をいうのです。あるとかないということにとらわ れている自分を離れて(「有無をはなる」)、一人ひとりがすべてだということですね。」
ばあちゃん 「どんぐりの背比べになることでなしに、一人ひとりがすべてだということですね。」
ごんげはん 「はい、一人ひとりが、ほかのものと取り替えることのできないオンリーワンなのでしょう、一人ひとりが、一人ひとりのかけがえのない、ほかのもの と取り替えることのできない存在の意味というものを明らかにして、その 世界を担って立つものになるのです。」
ばあちゃん 「あらまー。仏様の光にあったら、私たち一人ひとりの生活が私事でなくな って、人生の全体が仏縁になるのですね。」
 

第6回 正信偈ミニ解読
松寺同朋の会2012年8月号

十二光仏・無量光

■光に出会うということ
ばあちゃん 「無量光というのは、仏さまの放たれる光が、限りなく続いて、数えき れないほどの長い時間を刻むということですか。 」
ごんげはん 「そういうことではありません。だいたい光はどこにあるのかという問題です。光そのものは色も形もありません。ですから光ありと分かるのは、光に照らされて、その姿が見えているときですね。」
ばあちゃん 「なるほど、光のない真っ暗闇では、どこに何があるのか、さっぱり分かりませんね。光に照らされて、はじめてものの姿が分かる。当たり前のことですね。」
ごんげはん 「逆にいうと、光は光を放ったもののうえにおいてではなく、その光を受けたもの、受けたものというのは、言い換えると、光を妨げたものですね、光は、自らをあらわすのに自らの形を現すのではない。妨げたもののうえに、形を現すのです。」
ばあちゃん 「そうすると、仏さまというても、どこに仏さまがおられるかと、いくら外を探しても分からないわけですね。」
ごんげはん 「はい、仏の教えを聞いて、仏に目覚めたもののうえに働いて下さるのです。ご和讃に「有量の諸相 光暁を蒙る」とありますが、有量の諸相とは、具体的にいうと、一人ひとりの人間の業です。私たちはすべて有量の存在ですね。それぞれ代理のきかない有量の業を担って生きている。」
ばあちゃん 「同じ家庭に住む夫婦親子でも、一人ひとりですね。」
ごんげはん 「つまり、その一人ひとりが限りある身の事実において、限りない光明の世界を明かししていくのです。」

■みんなちがって みんないい
ばあちゃん 「 ああ、有名な金子みすづの童謡に「みんなちがって みんないい」という言葉がありますね。」
ごんげはん 「「阿弥陀経」にある「青色青光 白色白光」の世界です。青は青のまんま青の光を輝かす、白色は白のまんま白色の光を輝かす、ということは光に出遭うことによって、分限の自覚を賜るのです。それは全体に眼が開かれたものが、はじめて分限を知るのでしょう。」
ばあちゃん 「私など他人様と比較して、どうせ私なんかという、自分の狭い根性の中へ落ち込んでしまいがちですが、自分を包んでいる大きな世界に出会わないとダメでしょうか。」
ごんげはん 「自分を卑下したり、開き直ったりする必要がなくなって、ほんとうに自分のなすべきことを知るのです。自分しか見ていないときは、何をなすべきかわからないものです。欲望はありますが、欲望をいくら生きても満足はありませんよ。」
ばあちゃん 「光がないと、いかなる色も色を輝かせないで、闇一色になってしまいますね。」
ごんげはん 「つまり無量光というのは、一切の存在の意味が輝くということやな。」
 

第5回 正信偈ミニ解読
松寺同朋の会2012年7月号

よびさます光

普放無量無辺光  無碍無対光炎王

清浄歓喜智慧光  不断難思無称光

超日月光照塵刹  一切群生蒙光照

【読み方】

あまねく無量・無辺光・無碍・無対・光炎王・清浄・歓喜・ 智慧光・不断・難思・無称光・超日月光を放って塵刹を照らす。 一切の群生、光照を蒙る。

【意訳】

この名号をもって、十方の衆生を救おうとの誓願は、永遠の時を貫いて成しとげられたのであります。それが実を結んだのは、その願いの真実によるのであります。すなわち寿命無量の願、光明無量の願を根本として、身と口と意の業において、一念一刹那も清浄ならざるはなく、不可思議兆載永劫の間、衆生のために清浄功徳を円満されたのであります。
 かきして正覚の大音は十方微塵の国土に至らぬところなき光明をなって、響き流れました。無量光・無辺光・無碍光・無称光・炎王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光と、あまねく放たれる光明の徳は、衆生の無明の闇を破り、悪業にさえられず、清らかな信心の芽をめばえさせたのであります。

【要点】

「重誓名声聞く十方」という、その名の持っている徳が、十二の名で讃嘆されます。見えない世界が名となったとき、はじめてその存在に出合うのです。
 三重苦の聖女ヘレンケラーがまだ幼なかったとき、家庭教師のサリバン先生は非常に厳しく、徹底して物には名前があるということを、ヘレンに」教えようとされました。周りの人たちは、そんなことはとても無理だと、はじめから匙をなげていましたが、「もし一つの物の名前を覚えれば、その名前から全世界がヘレンの中にはいっていくのです」という信念のもとに、悪戦苦闘の日々が続きました。
 あるときヘレンはノドの乾きに耐えられず、自分でポンプから水を飲むのです。そしてはじめてウオータ〔水〕という名を覚えるのでした。それからは大地をたたいて、これは何という名前だ、顔をたたいて、これは何という名前だとたずねつつ、
次から次へと名前を覚えていくという、まことに感動的な映画のシーンがありました。名というのは、その名を通して世界を伝え、そのものの存在に触れさせるのです。
 名号というのも、ただ仏の名ということでなく、仏の名は仏の世界に出合う唯一の通路なのです。名を通して出合っていく仏法の世界が、この十二光仏の名として伝えられてきているわけです。

 

第4回 正信偈ミニ解読
松寺同朋の会2012年6月号

本願の洗練・その3

五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方

【読み方】

五劫にこれを思惟し摂受す。重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと。

【意訳】

このようにして、法蔵菩薩は智慧もなく力もない輩を、いかなるたよりをもって、わが浄土に導こうかと、深いご思案をつづけられること、五劫の長きに及びました。思案はついに、その根本に至りついて、大海の底の宝をひらうように、玉のごとき四十八の誓願を選びとられたのであります。

【要点】

あらゆる苦悩の衆生を救わねば、わたしは仏にならないと誓われた法蔵菩薩は、自分が目覚めた願を、いかにしてすべての人びとの事実にするか、おこした願を人びとに手渡し、あらゆる人間の事実となしうるか、それには人間の迷いを見極めねばなりません。その見極めに五劫という長い時間が必要でした。法蔵菩薩の思惟のながさは、われわれの流転の深さなのです。  そして、その願いを実現する方法として選びとられたのが、南無阿弥陀仏でした。つまり、あらゆる衆生が称える念仏の声となって、自らを具体化する方法を選択されたのです。

【語註】

五劫
「劫」は梵語の音写で長時と訳し、きわめて長い時間の単位で、四十里四方の石を百年に一度、薄い布で払い、ついにその石が摩滅しつくしても、一劫は尽きないとされあmす。聖人は「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずるに、ひとえに親鸞一人がためなりけり。さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんと思し召したちける本願のかたじけなさよ」と法蔵菩薩のご苦労のほどを讃えておられます。

摂受
摂取ともいいます。悪きを捨てて、よきを選び取ることをいいます。五劫の間思惟して、かぎりない諸仏の世界の中から、選びに選んで四十八の誓願を洗練されたのでした。

重ねて誓う
四十八願の上に上積みして繰り返されたということではなく、 四十八願を貫くいのちそおのものを抜き出して誓われた、その誓いが「名声十方に聞こえん」ということなのです。あらゆる衆生に聞きとられ、わが存在を受け止められたいという、願をおこされた菩薩の魂の叫びです。つまり仏の名は仏自身のためにあるのではなく、仏としての存在をあらゆる衆生に手渡すためでありお、おのれの存在のすべてを、苦悩の衆生に手渡す唯一の道としての宗教が、ここに誕生したのであります。

思惟
机の前でなにか難しい顔をして考え込むようなことを想像しがちですが、仏法にもっとも無関心な、一番遠い存在と向き合い、親身に拘わりつづけることで、法蔵菩薩の思惟の長さは、われわれ人間の迷い流転を見極めつくす、衆生理解のご苦労の深さなのであります。

【視点】

●お内仏に掛けてあるご本尊の裏書に「方便法身の尊形」と書いてある意味を学びましょう。
●わたしの命を貫く法蔵魂を呼び覚まそう。

 

第3回 正信偈ミニ解読
松寺同朋の会2012年5月号

本願の洗練・その2

覩見諸仏浄土因 国土人天之
建立無上殊勝願 超発稀有大弘

【読み方】

諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、
無上殊勝の願を建立し、稀有の大弘誓を超発せり。

【意訳】

法蔵菩薩 それは昔 国と王位をすてて 道を求めておられたころの   あなた(阿弥陀仏)の名(な)。あなたは、世自在王仏という師におつかえし、   み仏(ほとけ)たちの世界(せかい)の成り立(なた)ちと、国(くに)と人(ひと)のありさまを見極(みきわ)めて、みずから浄(きよ)らかな国土(こくど)を建(た)てようという、すばらしい願(ねが)いを打(う)ちたて、あらゆるいのちあるものと共(とも)に生(い)きようという、かつてない誓(ちか)いをおこされたのでありました。

【要点】

ここは『大無量寿経』をよりどころとして、阿弥陀仏が仏になられるまでの、菩薩の位にお ける求道のありさまが謳われる一段です。国と王位を捨てて、一介の修行者となった法蔵菩薩 は、世自在王仏の教えに出会い、二百一十億の諸仏の国を観察することによって見えてきたの は、迷いの淵に苦悩する衆生の発見でした。苦悩に喘ぐ現実にこそ、法蔵菩薩の本願の根拠が あるのです。なぜ南無阿弥陀仏が救いの行となったのか、仏教以前、歴史以前の世界が神話的 に讃嘆されます。

【語註】

覩見
人間の偏見によらないで、仏の加威力によって、まざまざとそのものが明らかに見 えてくること。覩という字は、はっきりとこの眼で確かめて見るという字です。

諸仏の浄土の因 国土人天の善悪
それぞれ歩んだ道の苦労によって、衆生を教化されつつある 無数の仏ましますというのが、大乗仏教の世界観です。諸仏の浄土を生み出している願心(因)と、 その因願によって成就した国土(果)の人天の善し悪しをいいます。これはいうならば、先生が弟子 になすべきことは、世界と歴史を知らしめること、それによって弟子は自分の人生を選びとる、つま り今はいかなる時代か、そして人間はいかなる存在なのかをほんとうに知るとき、自分がなすべき こと、なさずにおれないことが、おのずと決まるのです。建立とは、ただ建てたということではなく、そこから歩みが始まるという意味をもつことば。

無上殊勝の願
無上とは最上ということではなく、行き止まりがない、上限がないということ。最上 に対することばは最低ですが、無上について、聖人は「大利無上」といわれます。大利というのはす べての人びとと共にということです。したがって殊勝の願とは、ほかに比べてこの願が最も優れて いるということではなく、逆にどこまでも、到達した自分のさとりを破って、人間の苦悩の事実に従 っていく、苦悩の衆生あるかぎり、その衆生の中に歩み出るという願いをいいます。

【視点】

●なぜ浄土真宗のご本尊は、蓮台の上に立っておられるのだろうか。
●どうしたら人生の師に出合えるのだろうか。

 

第2回 正信偈ミニ解読
松寺同朋の会2012年4月号

本願の洗練・その1

法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所

【読み方】

法蔵菩薩の因位の時 世自在王仏の所(みもと)にましまして

【意訳】

法(ほう)蔵(ぞう)菩薩(ぼさつ) それは昔(むかし) 国(くに)と王位(おうい)をすてて 道(みち)を求(もと)めておられたころの   あなた(阿弥陀仏)の名(な)。あなたは、世(せ)自在(じざい)王仏(おうぶつ)という師(し)におつかえし

【要点】

ここからは、正信偈の前半である依経分といわれる一段になります。『大無量寿経』の教えをよりどころにして、冒頭の帰敬序に掲げられた仏の尊号の徳が讃えられます。ここはまず、阿弥陀仏が願成就して仏になられるまでの、菩薩の位における修行・求道のありさまが謳われます。

【語註】

因位の時
菩薩が仏になるための行を修めている間の地位をいいます。因位の修行が 達成して得た仏の位を果位といいます。これは仏といっても、私とは無関係に、天下り的にあらわれ た絶対者ではなく、仏が私たちと同じ位に降りてきて一求道者となり、私たちが失っている真実の 人生を回復する道を明らかにするのです。

法蔵菩薩
実在の人物ではありませんが、「国と王位」という、名と富に恵まれた生活に虚しさを感 じて、本物の幸せを求める心に生きようとする求道的人間像のこと。人間が自分を問題にし、本当の 自分になろうとする心、それを自覚した人にも自覚しない人にも、平等に流れている心であり、いわ ば人間の歴史の底を流れてきた、人類の真の魂(本願)といってよいでしょう。そのような時と所を 越えて、人類の歴史の内面を貫き、いまの私たちを呼び覚まそうとして働いている本願を、神話的 に物語る「本願の物語」が、この法蔵菩薩の物語なのです。

菩薩
全世界が幸せになることが、私の幸せ(自利利他)であるという願いに生きる人間像のこと。 私たちは誰でも幸せになりたいと思っていますが、どうなることが本当の幸せなのか、これが分ら ないのではないでしょうか。そして思い通りになることが幸せであるという妄想にだまされて日暮 らしを重ねています。その妄想を破って、もっと深いところにある人間の願い、本当にやりがいのあ ることなら、損得や都合の良し悪しを超えて、喜んでやりましょうという魂を回復した人のこと。

世自在王仏
法蔵菩薩が本当の自分になるために、道を求めて教えを請われた仏の名前。「世自 在」とは世間に自在なること。いろいろな関わりの中にあって、その関わりの中に自分を見失わず、 関わりのままに自らを回復する願いを成就しようとする名。それには、あらゆる関わりを貫いている 一つなるもの、その一点においては、みんなが頷き合い、平等に出会えるものに身が据えられたと きに、関わりのままに自在ということが成り立つのです。そのすべての存在を貫いて、一なる本当の 願い(本願)を掘り起こした名前が法蔵なのです。ですから「蔵」という名には鉱脈という意味があり ます。いかなる存在にも埋もれていて、しかもあらゆる存在を貫いて一なるものという意味があり ます。正信偈の「正」という字にも「一もって止む」、「唯」つまり「ただこのこと一つ」という意味があ ります。

【視点】

●何で生きていなければならないのだろうか。いずれは死ぬ身なのに・・・
●「煩わしい絆」もあれば、「大切な絆」もある、なぜだろう。

 

第1回 正信偈ミニ解読
松寺同朋の会2012年3月号

名としての仏

帰命無量寿如来 南無不可思議光

【読み方】

無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる

【意訳】

永遠(とわ)なるみ仏(ほとけ)よ、あなたの呼(よ)び声(ごえ)にめざめて、はじめて量(はか)りしれない 寿(いのち)に立ち帰(かえ)ることができました。その南無(なむ)と帰命(きみょう)したてまつる信(こころ)のもとには、 思いはかれもしないあなたの重い願いがましますのでした。

【要点】

この2句は、いずれも南無阿弥陀仏という念仏のかぎりないはたらきを寿命(いのち)と 光明(ひかり)の二つの徳であらわされたもので、溢れでる親鸞聖人の信仰のすべてを、端的に表白 されているところから、古来、帰敬序(ききょうじょ)といわれています。以下、そのいわれが大無量寿 経の教え(依経分)と七高僧の教え(依釈分)の二段にわたって、讃嘆されます。

【語註】

帰命 南無
自分以上のものに、わたしの全体を投げだして、すがりきる絶対の信頼を あらわす言葉。仏道の出発点。それはしようと思ってできるものではありません。教えを勉強し、訓練 してできるものでもない。親鸞聖人は、法然上人に出遇って、念仏の心を呼び覚まされたように、た またま仏縁によって、不思議にも念仏し礼拝している自分に出会う、南無、帰命している私に目覚め る、そこから仏道が始まるのです。

無量寿
阿弥陀仏の慈悲の働きをあらわすことばで、不老不死ということではありません。また、どこかに無量寿の仏様がおられるということでもありません。私の上に働らき、私の上にまで及ん でいる仏様の願いにうなずいたときの喜びの内容が無量寿です。私に働いて、迷いに目覚めさせら れたときの働きを仏様というのです。わたしの目覚めを抜きにして、仏様などというものは、どこにもおられません。

如来
「如」は真如・一如ともいい、如来とは真如、つまり真実の法の世界より来生したものという ことで、迷いの世界にあらわれた真実のことです。姿かたちをこえた真如そのものを法性法身とい い、私たちを目覚ましめんがために、姿かたちに具体化してあらわれてくださったのが、方便法身といいます。したがって南無阿弥陀仏は方便法身です。お内仏に掛けてあるご本尊の裏書には「方便法身の尊形」と書かれております。

不可思議光
無量光ともいい、人間の知恵ではかることができない光のことですが、「光」は電気 の光とか雷光とか、物理的な視覚の対象ではなく、私の思議・分別のもつ「無明の闇」を破る仏の智慧の働きをあらわします。無明の闇ということは、なにも分からなくて、お先真っ暗ということではありません。自分では闇とは思っていないどころか、自分は何でも分かっていると思い込んでいる、そういう自分を振り返る事のない在り方、自分の思いを一歩も出ないから真実に触れることがない在り方を闇といいます。 仏の光に遇うとき、不思議にも罪悪深重の凡夫という私が誕生するのです。そして、教えを聞く力を賜るのです。教えを聞いて、力を得るのではありません。聞かずにはおれない私が誕生することによって、念仏申している自分に深い驚きと喜びを見いだしつつ、苦しみと迷いの人生を、明るく歩んでゆくことができるのです。

 

ご和讃ミニ法話第3回
松寺同朋の会2012年2月号

■長生き地獄
ばあちゃん 「隣の奥さんが76歳で、あっという間に突然死されて、びっくりしましたちゃ。でも瞬 間やったけど、それ聞いて羨ましいなと思いました。遺族の方には大きいい声で言われんねどねえ。そういえば、お寺の前のごげはんもそうやったね」
ごんげはん 「ああ、分かる、わかる、長患いせんと、ピンピンコロリとしもうて逝かれてね。皆さんから、なんちゅう果報なごげんはんやねと云われたワ」
ばあちゃん 「私の友だちなんか、もう3年も入院しておって、若い人も大変ですワ」
ごんげはん 「長生き地獄の時代やね。長生きがそのまま喜びになるかというと、そうはいかん。 生きとることに喜びがないと、長生きはかえって苦痛になる。死ねないということは逆にいうと、終わりがないということだからね」
ばあちゃん 「そやね、どんな苦しみにも終わりがあるということで救われますちゃ」
ごんげはん 「だから、地獄という世界は、死ぬということがない世界といわれるわけだ」
ばあちゃん 「お説教で、等活地獄ちゅう地獄を聞いたことあります。頭のてっぺんから足の先まで切り刻まれて、その苦痛がやっと終わって、やれ終わったと思ったら、一陣の風が 吹いてきて地獄の鬼が「活、活」と叫ぶと、また元の姿に戻って、また頭から切り刻ま れ始めるちゅう、なんちゅ恐ろしいこっちゃ。ゾットする」
ごんげはん 「そういう意味では、人情としては誕生は目出度く、葬式は悲しいものと私たちは思っておるが、そうじゃない、生も死も同じく目出度い。だから昔から浄土真宗のご門徒 のお悔やみの言葉が『この度は爺ちゃんがめでたく阿弥陀様の浄土に往生なさいまて、娑婆のお勤めまことにご苦労さまでございました』というて、赤飯を炊く地方もあるようだね」

■有量ノ諸相

ばあちゃん

「さっき生きることに喜びがないと、長生きは苦痛になるといわれたけど生きる喜び ちゃ、どういうことけ、どうしたら出てくるがですけ」

ごんげはん 「今度の聖人750回の御遠忌法要のテーマが《今、いのちがあなたを生きている》だったが、普通は私のいのちを生きていると思っているわけだ。つまりいのちを私有化して、わが身に深く執着してやまない私に、そうじゃない、無量寿という如来様の命から生まれ、ご縁が尽きればその命に帰っていく、生も死も同じ無量寿の表裏の姿にすぎない、だから私を生かしつづけておる命そのものの願いに目覚め、命に宿っている命令を人生の使命として生きてこそ、生きる喜びになるのでしょう」
ばあちゃん 「有量の諸相が光暁をかぶる〔蒙る〕というのは、この私を有らしめた無量の世界に眼が開けたということになるがですかね」
ごんげはん 「そうです、全体に眼が開かれて、はじめてわが身の分限を知る、分限を知るということは、なすべきことを知るということですね」
ばあちゃん 「ある先生から、蝉は夏に生まれて夏に死ぬ虫だから、春や秋を知らないのは当然だ が、夏も知らない、四季を知っているものだけが、今は夏だということが分かると教えてもろうたことがあります」
ごんげはん 「阿弥陀経に青色青光黄色黄光という言葉がある。それぞれの色がそれぞれの色をかがやかす。有量の諸相とは色です。その色をしてその色たらしめているのが光です。光がなければ、いかなる色もその色をあらわせないで闇一色になる。智慧ノ光明ハカリナシというのは、一切の存在の意味が輝くということですね」
ばあちゃん 「私みたいなもんなどと、卑下する必要がなくなった、嬉しい」
 

ご和讃ミニ法話第2回
松寺同朋の会2012年1月号

■十劫ヲヘタマエリ

ばあちゃん 「阿弥陀様は十劫という大昔に成仏なさった仏様であるとご和讃にあるけど、劫というのは、どれくらいの時間の長さですけ」
ごんげはん 「途方もない長い時間だよ。四十里四方の大きな石を、百年に一度、薄い布で拭ってその石がすれ切れてしまうまでの時間が一劫です」
ばあちゃん 「へえー、ちょっと考えられんわ。気が遠くなる」
ごんげはん 「そんなが、考えられんほどの、かぎりない時の流れをへて、ようやくこの私の上に至りとどいたという、聖人の大きな喜びと深い懺悔(サンゲ)の心がこもっている」
ばあちゃん 「ああそうか、有名な「五劫思惟ノ願ヲヨクヨク案ズレハ、ヒトエニ親鸞一人ガタメナリケリ」とおっしゃる、しかし、そういう遇えるはずのないものに遇えたという喜びは肯けるけど、なんで懺悔せんにやならんがけ」
ごんげはん 「うん、そこがこのご和讃のキーポイントやね。なんで十劫という長い時を要したか、 それはひとえにこの私の頑迷な無明の深さ、仏様の本願を疑う罪の深さだったとい う懺悔やね。仏様の光は、法身ノ光輪キワモナクとあるように、いつでもどこでも生 き生きと働いているのだが、それに目覚められないのは、世ノ盲冥ヲテラスナリとあ るように、私の盲冥、つまり真実が見えないために、自尊心を自分だと勘違いしたり、 自分の体験や知識を正しいとしてとらわれている、それが盲冥といわれる闇なんで す。聖人は智愚の毒という厳しい言葉で、人知の限界と闇を鋭く見破っておられる。 まことに阿弥陀様のご苦労は、この自分の迷いの深さにあった、そんな私に届くはず のない阿弥陀様の心が不思議にも私のうえに至り届いて、人生、生まれ変わったとい う感動が、高らかに讃嘆されているご和讃ですね」

■世ノ盲冥

ばあちゃん

「東日本の大災害での原発事故が思い起こされますね。安全という神話を信じて、人 類の幸せを求めて、科学の粋を集めて人知を尽くした結果が、冷酷無比のモンスター になって、周辺の方がたを地獄のどん底へ追いやっている。もう痛ましくて・・・」

ごんげはん 「その責任の一端は私ら一人ひとりにもあるな。時代社会の人間の業や。それを照ら し出すのは、人間の人知を超えたものでないとね」
ばあちゃん 「話かわりますが、先日、親戚の法事にいきましたら、あの暗かったお嫁さんが、生き 生きと明るくなっておって、びっくりしましたちゃ」
ごんげはん 「ああ、お子さんが上は確か3年生の男の子で2番目も男の子で、その下が3歳の女 の子やったね」
ばあちゃん 「ようご存知で。ところがその女の子が病気で、歩くこともできないだろうと、お医 者さんから宣告されて、お嫁さん、大変悩んでおったがです。そんな子どもをかかえ た自分がみじめで、姑さんの話では、心中まで考えたらしいがです」
ごんげはん 「それがどうして立ち直ったのかな。聞きたいね」
ばあちゃん 「それがね、ある日、外の遊びから帰った、いつもいたずらばかりしておる上の男の子 が、その小さな妹を抱いて頬ずりしながら、「お母さん、ユキちゃんはきれいだね、顔 も手も足も、それにお腹だって全部きれいだよ、ユキちゃんはお家の宝物だもんね」 という言葉に、お母さん、身の縮むほど恥かしかったというがです」
ごんげはん 「ああ、いい話だね。おそらくその言葉に、お母さんが今まで大事にしてきた物差し だけを正しいと信じていた自分は、この世で最も傲慢で愚かな人間だったと目覚め たんだね。逆にいうと、真剣に悩んだ分だけ、その悲しみから立ち上がれるのかも」
ばあちゃん 「そうやね、私もこのしぶとい根性に困っとる、恥ずかしいわ・・・」
 
ご和讃ミニ法話第1回
松寺同朋の会2011年12月号

■やわらげほめ
ばあちゃん 「親鸞聖人ほど、たくさんの和讃を残された方はいないと聞きましたが、どれくらいあるがですけ」
ごんげはん 「そうやね、浄土和讃が118首、高僧和讃が119首、正像末和讃が116首。合計353首あるが、総称して『三帖和讃』というておる。そのほかのものを入れると510首あまりもあるかな」
ばあちゃん 「正信偈のあとに唱和する和讃はたったの6首やけど、なんでそんなに多くの和讃を詠われたがけ」
ごんげはん 「聖人は和讃の文字の左肩に、〔やわらげほめ〕という言葉を添えておられるから、むずかしい経文を〔やわらげ〕て分かりやすく、そして仏の大悲を〔ほめ〕讃嘆して、広く人びとに伝えたいという願いと同時に、深く時代と自らの在りようを悲嘆するこころが全体を貫ぬているといってよいでしょうね」
ばあちゃん 「和讃を唱和しとると、意味はよく分からんがやけど、その響きがこの身をひたしてくるような気がしますわ」
ごんげはん 「さすが良いこというね。文字の意味を理解することも大事だガ、日々の生活の中で、いつでも、どこでも、誰にでも、ともに諳んじて唱えることによって、自ずと教えの要が生活感覚に、そして土徳として育まれてくる、それが真宗門徒の歴史やろうね」

■本願成就

ばあちゃん 「それにしても第1首目からして、チンプンカンプンですわ。弥陀成仏ノコノカタハイマニ十劫ヲヘタマエリちゃ、どういうことけ。阿弥陀様が十劫の昔に成仏された仏様だといわれても、この私と何の関係あるがですけ」
ごんげはん 「阿弥陀様は、はじめから仏としておられたのではなくて、『正信偈』にあるように、法蔵菩薩として修行された因位の歩みがあってね、そのときにおこされた願いが成就して仏になられたわけや」
ばあちゃん 「というと、阿弥陀様の願いというのは、よくお説教で聞いている、あらゆる衆生を摂め取って捨てないというお誓いのことですけ」
ごんげはん 「そうです」
ばあちゃん 「その願いが成就したということになると、もうすべての人がすでに救われているちゅうことになりますね。でも実際は成仏できてない人がいる、少なくともこの私はいまだ残っておる、なのにどうして阿弥陀様だけが、さっさと成仏してしまわれたのかな。救われていない人がいるかぎり、願いが成就したといえないのでは・・・・」
ごんげはん 「なかなか鋭いな、ばあちゃん。それはね、願いがすでに成就しているということはどういうことかという問題です。私たちも人生においていろんな願いをおこして、苦労して実現のために努力するのだが、たいていの願いは、成就したときに満足して消えてしまうわね。ところがね、今いう本願成就というのは、その願いが人をかぎりなく呼びおこしてゆく力となって、すべての人の上にはたらき、願いがつねに新たにされていく、その願いに燃えている人によって、次つぎと新たな火を呼びおこしていく力となったということです」
ばあちゃん 「なるほど、今度の大災害に、世界中から支援金やらボランテアの善意が自発的におこってきた根本こそ、阿弥陀様の本願がはたらいている証拠だということですかね」
ごんげはん 「ああ、いいところに気づいたね。きょうはばあちゃんに教えられたな。ありがとう」
 

正信偈ミニ法話第8回
松寺同朋の会11月例会資料

■因を頂く道

ばあちゃん 「今度の孫の修学旅行に、一食だけ弁当持参せねばなりませんが、スーパで買うたものではなく、お母さんのにぎったおにぎりを持たせてほしいと、担任の先生からのお達しだそうで、嫁さんが「忙しいのに」とブツブツ言ってました。しかも、そのおにぎりに、どんな思いをこめてにぎったか、お母さんの手紙を書いて付けてほしいとか」
ごんげはん 「ほう、今どき味なことを注文する先生やな。結果が楽しみですね(そして後日・・・)それでこの前のおにぎり持参の件、どうやった」
ばあちゃん 「担任の先生の報告やけど、ふだんはやんちゃをやって仕方のない男の子が、そのお母さんの手紙をジーッと、涙をためて読んでいたのには驚いたが、ほかの子どもたちもおにぎりをほほ張りながら、一生懸命に読んでいた、ある子はていねにその手紙を折りたたむと、お守りのように胸のポケットに仕舞ったそうですわ」
ごんげはん 「よかったね。じつはその先生に会う機会があって、話を聞いたんだが、旅行記を書かせたらしい。お孫さんの日記を見せて下さったよ」
  弁当の包みをほどいてみたら、おにぎりにお母さんの手紙がついていた。それを読んでたら、おにぎりだけではない、着ているこの服も、この修学旅行のために、お母さんが忙 しい中から縫ってくれた服だし、飾りについている刺繍のひと針ひと針にもお母さんの 心がこもっているのだと分かった。ほかの友だちはたいてい出来合いで買った服だった たが、わたしの服は少しダサイけども、世界に一つしかないと思うと、暖かい気持ちになりました。そして、わたしもお母さんのようなお母さんになりたいと思いました。
ばあちゃん  「へえー、さすが自慢の孫やなあ。お母さんの暖かい心が分かる年頃になって、わたしも嬉しい。同じ千円そこらの小遣いでも、前は貰って当然という感じやったが、最近は本当に嬉しそうに、有難ういうて貰っておっちゃ。あまり裕福でない親の懐具合いが、だんだん分かってきたがでしょうがいね」

■幸せは感謝と感動にあり

ごんげはん 「前に法蔵菩薩の因位の時とあったが、真宗はその因をいただく道です。ふつう宗 教というものは、結果を期待する、つまりご利益を期待するのが宗教です。信心したおかげで病気が治ったとか、商売がうまくいくようになったとか、家のなかが丸く収まったとか、それは果ですね。信心した結果としてのご利益です」
ばあちゃん 「なるほどね、近ごろはインスタントの時代で、手っとり早く果を手に入れたいという 傾向が強いな。わたしらの時代は、食事ひとつにしても、材料を買ってきて一つ一つ 心をこめて料理を作った、いわばお袋の味が当たり前やったが、今は便利になって、スーパやコンビニで、でき合いのお惣菜を買ってきてね」
ごんげはん 「それでは感謝とか感動というものが育ちにくい。人間の幸せ、幸福感というのは 感動するところにある。心から感謝せずにおれない、そういう事実に会ったときに、いちばん幸せを感ずるものですね」
ばあちゃん  「逆に、なんでも欲しいものをすぐに与えてもらえる過保護の子どもは不幸やね」
ごんげはん 「現代はなにか非常に不幸なことになっているように思うのだが、それは全部、果 としての幸せを追い求めてきたからでないかな。果を生み出しているもの、因を見る眼が大事です。親鸞聖人は現生の利益とおっしゃる。つまり果をいただくのが現世のご利益であるのに対して、因をいただくのが現生のご利益です。それは、生み出されたものをいただくのではない、生み出していける力をいただく道やね」
ばあちゃん 「そういえばという感謝を表わす字は、で成り立っている字やと聞いたこ とありますわ。因を見る心を報恩講で明らかにせんにゃね。棚からボタ餅ちゅわけには、いかんがですなあ。ほんまに、ホーウやね」
 

正信偈ミニ法話第7回
松寺同朋の会10月例会資料

■本願の物語

ばあちゃん 「さっそくやけど、『正信偈』の三行目に法蔵菩薩の因位の時とあれど、どういうことですけ。阿弥陀様が修行をしておられた時というふうに聞いたことありますが・・・」
ごんげはん 「ここから依経分(えきょうぶん)というて、『大無量寿経』に説かれておる本願の物語が讃嘆される大事なところですよ」
ばあちゃん 「天下り的に、ある日、唐突に阿弥陀様がこの世に現れたのではないちゅうことけ」
ごんげはん 「そうです。ある時、一人の国王が、仏の教えを聞いて、このままの人生でいいのか と、自分のあり方に疑問をいだいたのが始まりや。それでこともあろうか、国と王様 の位をすて、一介の乞食坊主となって、みずから法蔵と名のって、世自在王仏に出会 い、教えを乞うことによって、ついに無上殊勝の本願を起こされ、本願が成就してナ ムアミダブツとなられたという物語が書いてある」
ばあちゃん 「へえー、なんか昔話か架空の話のようですね、実在の人物じゃないがでしょう」
ごんげはん 「うん、物語というのはね、筋道ではあらわされない、男も女も老いも若きも、あら ゆるの根底を貫くような深い意味、つまりいのちの創まりを神話的に表現する文 書形式というかな、歴史以前の世界。たとえば『古事記』というのは日本という国 の創まり、歴史になる前の国の根元を物語る神話ですね」
ばあちゃん 「そうすると、法蔵菩薩というても、人生に悩み、世のあり方に問題を抱いて、本 物の自分になろうとして道を求める人間のことをいうわけやね。この私にも流れ ていて、しかも私も気づいていない、本当の願いを生きる人間像のことかな」
ごんげはん 「この度の福島原発事故でいうと、科学技術万能という「人知の傲慢さ」が破られ て、人間はなんと「賢すぎる大馬鹿者」だったか、幸せを求めて努力してきた結果は、 地獄への道行きでしかなかったという愚かさが、地球全体を崩壊に向かわせている、 そのような人類の危機を感じて、法蔵菩薩は王位を棄てて出家したといってよい」

■法蔵魂を生きる

ばあちゃん 「王様というと名誉とか富とか権力を欲しいままにできる幸せな境涯やね。うらやましいな。それらを棄てて、出家するとは・・・」
ごんげはん 「仏教は贅沢な教えです。あれも欲しい、これも手に入った、生活の不安もなくな った、しかしそれでも満たされないのはなぜか、そこから出発する」
ばあちゃん 「そうやね、衣食や健康の心配がないからというて、何もせんと、毎日ボケッと テレビ見ておっても面白ないしな」
ごんげはん 「昔は長寿天国といっていたが、天国どころか長寿地獄という世の中や。何のた めの長生きか、長生きして何をしようとするのか、わしら年寄り与えられた課題だ。 小学校五年生の子供が、こういう作文を書いているヨ。
  年寄りはいいな天気がよかったらゲートボールに行って二ヶ月にいっぺんは温泉旅行に行って好きなことできて小遣いは郵便局からもらって宿題はないし 僕もはやく年寄りになりたいなあ
ばあちゃん 「ああ、これが今どきの子供が見た、われわれ年寄りの生きざまなんですかね。恥ず かしい。年寄りの責任は大きいですね」
ごんげはん 「どんなに老いても、与えられた命を精いっぱい輝かして生きていきたい。年寄りほ ど、本物の人生を求める法蔵魂を忘れてはならんね。生涯現役ですよ。それだけではない、教えに生きた念仏者は、亡くなってからも阿弥陀様のお手伝いできるがやぞ」
ばあちゃん 「へえーえらいこっちゃ」
 

正信偈ミニ法話第6回
松寺同朋の会9月例会資料

■幸せの中の孤独

ばあちゃん 「とうとう東北の仮設住宅で、孤独死がありましたね。78歳の男の人で、二年前に奥さんに先立たれて、引越ししてから二週間、誰にも気づかれんとね・・・」
ごんげはん 「痛ましいな、あるボランテアの方が声掛け運動が必要だといっていたが、中には一人にしておいてくれと叫びたいものをもっている人もいる。あんたはどうや」
ばあちゃん 「わたしだったら一人ぼっちは嫌ですちゃ、気の合った友だちと一緒にいたい」
ごんげはん 「しかし、ワイワイと仲間や家族に囲まれていても、寂しいことないか」
ばあちゃん 「そうですね、一緒にいてもお互いに、すれ違ったりすると・・・ね」
ごんげはん 「フランスの詩人・ポール・バレリーという人が、神が人間を造りたもうた。さて、しかし、それだけではまだ孤独が足りないとおぼしめして、伴侶を与えたもうた。といっている。愛する者に囲まれていながら、そこに、なお感ずる寂しさやな」
ばあちゃん 「そうですね、人の絆だけでは埋めてもらうことができない孤独というのか・・・」
ごんげはん 「お経に『身、みずからこれを受けるに、代わる者あることなし』とあるが、親といえども子供の人生を代わってあげるわけにはいかない、どんなに愛していても、愛する人が死んでいくのを、ただじっと見ているほかにないという孤独もあるね」
ばあちゃん 「独りでは淋しいから、結婚して所帯でも持てば幸せになれるだろうというのが常識やけど、いろんな絆の中にあればこそ感ずる寂しさですね」
ごんげはん 「仮設住宅で孤独死され方の問題は、この私も持っている。一人ぼっちの深みに涙する者が、安らかに、そしてこころ豊かに生きる道はないのか、そういう世界を求めて法蔵菩薩の厳しい求道生活が、『正信偈』の三行目から展開します」

■世自在王とは

ばあちゃん 「そんな寂しさを誤魔化そうとして、いろんなお遊びが盛んですね」
ごんげはん 「遊びの後は虚しいぞ。一人ぼっちでも悠々とおれる世界が欲しいな。ある農家の小学校二年生の女の子が、次のような作文を書いているので紹介しましょう。
  きょうもお母さんは、はたけだろうと思いながら、学校からかえってくると、やっぱり家の大戸(おおど)がしまっていました。わたしは、つまらないなあと思って、 大戸をヨイショとあけまました。すると、わたしはびっくりしました。庭じゅういっぱいになにかかいてあります。よく見ると、それは、けしずみでかいたお母さんの顔です。大きな顔のところのそばに「やき山のはたけにいるよ」と、かいてありました。
わたしは、けしずみでかいたお母さんがまっていてくれたので、さみしくないと思いました。わたしは、かばんをおろしてから、けしずみを一個もってきました。そして、お母さんのかおのそばに、小さいわたしをかきました。リボンをつけたわたしにしました。
そして、おかあさんのほうに手をのばして、肩たたきをしているところにしました。
「かあちゃん、かたたたいてあげるよ」とかきました。はんたいがわに「あしたもまっててね」とかきました。
すっかりかきあがったので、手をあらって、おやつをたべてから、わたしは、お母さんのかおのそばで、ゆうがたまで、いっぽんふみをしてあそびました。
東井義雄先生の著作より
ばあちゃん 「すばらしい親子やね。『百千の灯あらんもわれを待つ灯は一つ』という言葉を思い出しましたわ。お母さんは絶対に私を見捨てないと確信できる子どもは、安心してお母さんの絆から離れて、一人で遊べるがですね」
ごんげはん 「盲目の愛ではかえって子どもの自立を妨げる。親と子がどこまでも対等に出会える道を生きている名が、世自在王です。法蔵菩薩の先生ですね、次回にまた」
 

正信偈ミニ法話第5回
松寺同朋の会8月例会資料

■念仏の智慧

ばあちゃん 「ごんげはんもご存知のAさんが、寝たきりの80歳のじいちゃんを残して亡くなりまました。長い間、じいちゃんの面倒を看ておられたがに・・・」
ごんげはん 「ああ、あんたと遠縁だったね。順番通りいかんシャバです。ところで、残されたじいちゃん、どうしました、若い者と別居しとられたね」
ばあちゃん 「それがね、聞いてくだはれ。息子の嫁さんがさっさと会社やめて、じいちゃんの世話をしておるがです。かなりの高給取りだったがに・・・施設へ入りたがらんもんで」
ごんげはん 「はーん、それでしばらく寺の聞法会に顔が見えんかったわけや」
ばあちゃん 「その嫁さんに、惜しいことしたなというたら、ハイ、いまは給料もらえませんけど、私ね、じいちゃんの世話するようになってから、奉公賃もろうてますというがですよ」
ごんげはん 「すごいこというね。奉公いうたら無料やな。親が子を育てるのも無料じゃが、その奉公賃の中身は何やろう。お金では絶対に買えない何かをもろうているわけだ」
ばあちゃん 「私も聞きましたら、嫁さんのいわく、奉公賃の第一番は、私が偽者(にせもの)やいうことを分からせてもらったことですというがです。それでまた聞いたがです。偽者ちゃどいうことやって。そしたら、大きな声でいえませんけど、私、おじいちゃんの世話するのは、おじいちゃんが大事だからじゃないんです、というがです」
ごんげはん 「なるほど、分かった、おじいちゃんが大事というより、自分が大事だから」
ばあちゃん 「そいが、おばあちゃんのときの看護より、嫁の私の看護のほうが悪いといわれんようにと、そればかり考えていますというて、その後、小さい声で念仏しとりましたわ」
ごんげはん 「まさしく親鸞さまが、念仏は無明の闇を破る光であるとおっしゃる通りやな」

■無明(むみょう)の闇

ばあちゃん 「無明ちゃ、真っ暗闇で、なにも見えんということですけ」
ごんげはん 「いや、真実が見えないということです。人間はまことに面倒なもので、真実が見えないと本当でないものを真実として立てる。真実が見えない一番の根っこは何かというと、私は間違っていない、わかっていると思っている心です。ちゃんと手持ちの答をもっているから、耳を傾けようとはしない、それが闇ということです」
ばあちゃん 「そうか、親子の関係でもそうですね。私などは子どものことは何でもよう分かっていると思っておったら、子どもから、おかあちゃんはちっとも私を理解してないと、泣かれたことがありましたわ」
ごんげはん 「『歎異抄』に煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもってそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわしますとおっしゃる。自分は絶対に間違いない、正しいと旗印をたてるところに争いが起こる、そしてどんな残酷なことでもする、その人間の悲しい愚かさに、生涯をとおしてうなずかれた親鸞さまの言葉です」
ばあちゃん 「こんな川柳思い出しましたわ。《耐えてきたという家内に耐えてきた》。私のことをいわれとるようですちゃ。死んだじいちゃんに申し訳ない」
ごんげはん 「貧乏にも、姑の愚痴にも、主人のわがままにも一人で辛抱してきたからこそ、今の家庭があるという自惚れやな。それは如来様の眼をもらわんと、自分では見えん」
ばあちゃん 「なるほど、あるご法座で、念仏して自分が辛抱するのではない、相手のご辛抱が見えてくるのだと教えてもろうた意味がやっと頂けました」
ごんげはん 「それが不可思議光のはたらきですね、ますます教えを聞いていかんまいけ」
 

正信偈ミニ法話第4回
松寺同朋の会10月例会資料

■本願の物語

ばあちゃん 「さっそくやけど、『正信偈』の三行目に法蔵菩薩の因位の時とあれど、どういうことですけ。阿弥陀様が修行をしておられた時というふうに聞いたことありますが・・・」
ごんげはん 「ここから依経分(えきょうぶん)というて、『大無量寿経』に説かれておる本願の物語が讃嘆される大事なところですよ」
ばあちゃん 「天下り的に、ある日、唐突に阿弥陀様がこの世に現れたのではないちゅうことけ」
ごんげはん 「そうです。ある時、一人の国王が、仏の教えを聞いて、このままの人生でいいのかと、自分のあり方に疑問をいだいたのが始まりや。それでこともあろうか、国と王様の位をすて、一介の乞食坊主となって、みずから法蔵と名のって、世自在王仏に出会い、教えを乞うことによって、ついに無上殊勝の本願を起こされ、本願が成就してナムアミダブツとなられたという物語が書いてある」
ばあちゃん 「へえー、なんか昔話か架空の話のようですね、実在の人物じゃないがでしょう」
ごんげはん 「うん、物語というのはね、筋道ではあらわされない、男も女も老いも若きも、あらゆるもの根底を貫くような深い意味、つまりいのちの創まりを神話的に表現する文
書形式というかな、歴史以前の世界。たとえば『古事記』というのは日本という国の創まり、歴史になる前の国の根元を物語る神話ですね」
ばあちゃん 「そうすると、法蔵菩薩というても、人生に悩み、世のあり方に問題を抱いて、本物の自分になろうとして道を求める人間のことをいうわけやね。この私にも流れ
ていて、しかも私も気づいていない、本当の願いを生きる人間像のことかな」
ごんげはん 「この度の福島原発事故でいうと、科学技術万能という「人知の傲慢さ」が破られて、人間はなんと「賢すぎる大馬鹿者」だったか、幸せを求めて努力してきた結果は、地獄への道行きでしかなかったという愚かさが、地球全体を崩壊に向かわせている、そのような人類の危機を感じて、法蔵菩薩は王位を棄てて出家したといってよい」

■法蔵魂を生きる

ばあちゃん 「王様というと名誉とか富とか権力を欲しいままにできる幸せな境涯やね。うらやましいな。それらを棄てて、出家するとは・・・」
ごんげはん 「仏教は贅沢な教えです。あれも欲しい、これも手に入った、生活の不安もなくなった、しかしそれでも満たされないのはなぜか、そこから出発する」
ばあちゃん 「そうやね、衣食や健康の心配がないからというて、何もせんと、毎日ボケッとテレビ見ておっても面白ないしな」
ごんげはん 「昔は長寿天国といっていたが、天国どころか長寿地獄という世の中や。何のための長生きか、長生きして何をしようとするのか、わしら年寄り与えられた課題だ。
小学校五年生の子供が、こういう作文を書いているヨ。年寄りはいいな天気がよかったらゲートボールに行って二ヶ月にいっぺんは温泉旅行に行って好きなことできて小遣いは郵便局からもらって宿題はないし僕もはやく年寄りになりたいなあ
ばあちゃん 「ああ、これが今どきの子供が見た、われわれ年寄りの生きざまなんですかね。恥ずかしい。年寄りの責任は大きいですね」
ごんげはん 「どんなに老いても、与えられた命を精いっぱい輝かして生きていきたい。年寄りほど、本物の人生を求める法蔵魂を忘れてはならんね。生涯現役ですよ。それだけではない、教えに生きた念仏者は、亡くなってからも阿弥陀様のお手伝いできるがやぞ」
ばあちゃん 「へえーえらいこっちゃ」
 

正信偈ミニ法話第4回
松寺同朋の会6月例会資料

■無量寿とは

ばあちゃん 「孫が被災地の方がたに何ができるのか、自分を探したいというて、岩手県の友だちを訪ねていきましたが、自己中〔じこちゅう〕の孫とばかり思っていましたが・・・」
ごんげはん 「ほうー感心やな。義捐金箱を盗んでゆくシャバだが、一方、思いがけない若者が、じっとしておれんというて、ボランテイア活動に取っ組んでいる。尊いことですね」
ばあちゃん 「まだ行方不明の方が七○一四人〔七月七日現在〕もおられる。胸が張り裂けそうで涙が出ますちゃ。僅かですが、義捐金出させてもらいました」
ごんげはん 「いつも自分中心に生きていながら、その私に人の悲しみが他人事と感じられないという思いは、いったい、どこから来るのかな。不思議ですね」
ばあちゃん 「中には立山のおかげで、災害が少なくて富山はいいとこやねという人がおられるけど、被災地の方がそれを聞かれたらどう思われるやら。罰があたりませんかね」
ごんげはん 「自分に関係ないことでも、見過ごしにできない状態を目や耳にしたとき、人ごとでないと感ずる、それが私を生かしているいのちの事実でしょうね」
ばあちゃん 「それはやはり、前にも言われた同根のいのちということですか」
ごんげはん 「はい、いのちは決してばらばらではない、お互いに通じあうものを、お互いにもっているということでしょう。なにかできることをしてあげたい、しかし、できないことを申し訳なく思う、そういう心が私の中に生まれてくる。『歎異抄』に一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なりといわれています」
ばあちゃん 「つまり私のいのちは、おぎゃあと生まれてから始まったのではないということかな。無量寿から生まれてきた、尊いいのちをこの身に頂いておる。勿体ないなあ」
ごんげはん 「おぎゃあと生まれて、自分が体験したことだけが人生のすべてであるなら、人の悲しみを、人ごとでないと感じる心は、決して私の中には出てこないと思うな」

■無量寿は愛のはたらき

ごんげはん 「 原田大助という知的障害の人が、十代のときに書いた詩に、オレのおかあちゃんのおなかに赤んぼうがいるんやぞオレともうちやんと手をつないで生きとるんやぞもっと手をぎゅっとにぎったり 〔にぎってあげよう〕悲しくなくなるかもしれへんから (『さびしいときは心のかぜです』樹心社)いのちに○×をつけて選ぶ今日の科学の最先端からすると、原田さんの人間としての素朴な世界がどんどん見失われてきていますね」
ばあちゃん 「それにしても優しい詩ですね。ほっとするような安らぎを感じます」
ごんげはん 「昔から無量寿は阿弥陀様の慈悲の働きをあらわすといわれる。慈悲というても、何かしてあげるということではなく、常に寄り添い、見守りつづける愛ですね」
ばあちゃん 「無量寿というと不老長寿のことではないのですか。いつも私に寄り添うていて下さるという働きを表わす言葉なのですね。被災地の方がたを支える言葉にもあった」
ごんげはん 「人間の愛は雑毒の善であると親鸞は見破っている。善意でも見返りを求める親切であったり、善いものと見られたくての自己犠牲であったり、そういう私の心の闇を照らし出して下さるはたらきが不可思議光です。この十年で子供の虐待死が十倍に増えているが、いかに今日、私たちは無量寿の愛に飢え、心の闇を照らしてくださる不可思議光を求めているか・・・人間としての謙虚さというか、自分のあり方に深い悲しみを感ずる心の回復こそ、日本再生の鍵だね」
 

正信偈ミニ法話第3回
松寺同朋の会五月例会資料

■帰命と礼拝

ばあちゃん 「こないだ正信偈あげておりましたら、孫が帰命無量ちゃどういうことけと問うがですれど、無量は次に寿如来とあるから、阿弥陀様のことやと見当つきますが・・・」
ごんげはん 「お孫さんにとっては、正信偈という名前よりも、帰命無量という響きが頭に刻まれておるな。それで思い出したが、もと横綱の若貴兄弟のおじさんを知っているかね」
ばあちゃん 「栃若時代の土俵の鬼といわれた人やね。なんでも長男がチャンコ鍋で大やけどして亡くなったという・・・」
ごんげはん 「ああ、よく覚えているね。その若乃花が長男の葬式は帰命無量じゃなかったからというて、改めて京都の東本願寺へ来てお勤めしたことがあった」
ばあちゃん 「へえー知らなんだ。そうそう、そのころご本山に勤務しておられましたね」
ごんげはん 「ところで帰命だが、南無は古代インドのことばの音写だから、漢字に意味はありません、その翻訳が帰命です。南無・帰命からまことの仏道が出発する、大事なことばです。形で表わすと礼拝とか拝むということになるが、ばあちゃん、あんた、正月なんかにお宮さんにお参りするとき、どういう気持ちで拝んでおられますかな」
ばあちゃん 「そうですね、お稲荷さんなら家内安全・商売繁盛、お不動さんなら交通安全、お地蔵さんなら安産祈願、合格祈願ならお宮さん、ピンピンコロリならポックリ寺ですちゃ」
ごんげはん 「神様も忙しいことです。しかし一般の日本人の宗教感覚やね。自分の思いを満足させてくれそうな神仏を対象に立てて拝んでいるわけだが、それはどんな敬虔な姿をとっていても、自分の欲望に合わせて、神仏を利用していることにならんかな」
ばあちゃん 「でも皆さんそうやってお参りしてますね。昔からのしきたりで、皆が一緒なら安心ですから。そう心から信じてもおらんのでしょうが、気休めでしょうかね」

■如来様は名詞ではない

ごんげはん 「帰命というのは逆に神仏をも利用してやまない、自己中心のあり方が破られて、如来様の心〔本願〕がこの私を満たし、溢れでてきて、生まれ変わることです」
ばあちゃん 「それでも、気休めでも幸せな生活がしたくて、神だのみするがでしょう」
ごんげはん 「そんなら聞くけど、幸せな生活って、どういう世界かな」
ばあちゃん 「うーん、改めて聞かれると、わかりません。わからんけど求めておる」
ごんげはん 「そうや、私のなかに自分でもわからん願いが私を動かしておる。理屈をこえとるから、理性よりもっと深い願いというべきかな。逆にいうと、私たちはその深い願いに呼びかけられている存在だということです。その深い願いを本願という。親鸞様は帰命というは本願召喚の勅命なりというておられる。だから帰命の命は本願からの命令です。生まれながらの願いに目覚めよ、でなければ健康とか財産とか名誉とか愛情とか、それらはたしかに切実な問題だが、生まれてからの願いをいくら追求しても人生虚しいよと、私を生かしているいのちが命令しておる」
ばあちゃん 「ああ、それで理屈に合わんお寺参りして、本願のいわれを聴聞するがですね」
ごんげはん 「寺へ来て現世のご利益を求めるのではない。それは手に入ったときは嬉しいが、しばらくすると当たり前になって、次の欲が出てくる。その根本にある、私がほんとうに求めていることが何なのか、いのちそのものの願いを明らかにするために、教えを聞くのです」
ばあちゃん 「それで関東のご門弟たちが命がけで、京都の親鸞様を訪ねられたわけや」
ごんげはん 「自分の身を守るための人生が、この身を捧げる場所になる。なぜなら、私の胸に如来の真実が脈打ってくるからです。じっとしておれん、私が私になるか、ならんかの瀬戸際です」
ばあちゃん 「如来様は名詞じゃなかった、私の胸に如来して下さるという動詞だったんですね」
 

正信偈ミニ法話第2回
松寺同朋の会四月例会資料

■念仏が生きる支えにならない

ばあちゃん 「いつも習慣のようにナンマンダブツとお念仏しとりますが、何べんとなえても、べつに、なーんちゅことないがですれど、心のこもらん空念仏だからですけ」
ごんげはん 「自分の心で念仏しておるつもりだから、となえようによって空念仏になったり、心のこもる念仏になったり、自分で味付けしようとする。しかし、出て下さっている念仏は、空も嘘もない、正真正銘の本物ですぞ。あんたの口からお念仏が出てくださるまでには、五劫というながい如来様のご苦労がある、よほどのご縁あればこそです。自分ではなかなか念仏は申せません。ところで、あんたどんなときにお念仏しておるか、考えてみんまいけ。たとえば、朝夕仏壇に、きょうもお陰さまで元気で無事でした、これもご先祖様のお陰ですとかね」
ばあちゃん 「はい、それやったら毎日しとりましちゃ。感謝の気持ちで」
ごんげはん 「《感謝のお念仏》だね。いちばん一般的に考えられるお念仏の心だね。しかし、感謝しておれる間はいいけれども、病気になったり、災害にあったりしたら、感謝どころか、なんとかしてほしいという気持ちで、お念仏しとるときないですか」
ばあちゃん 「そうそう、嫁さんが交通事故にあったとき、真剣にお念仏しました。それに、ことし高校に入った孫が、受験日の朝に、仏壇に手をあわせて、念仏しとりましたわ」
ごんげはん 「この念仏は《すがる念仏》というべきかな。ガンの告知をうけたり、たいへんな危機に陥ると、思わずたすけてほしいと、必死の思いでとなえる念仏だね。そのほかにまだあるぞ。この前の老人会で、あんた言うとったぜ。覚えておらんけ」
ばあちゃん 「思い出しました。耳は遠くなるし、腰は痛いし、身体はいうこと利かんし、若いもんにも相手にされんようになるし、もうこうなったらお念仏だけが頼りやと」
ごんげはん 「これは《残念の念仏》かな。どれだけ世を恨んでみても、もうこうなったら念仏するより仕方がないという愚痴を、念仏で晴らすわけや。ただ大事なことは感謝の念仏にしろ、すがる念仏にしろ残念の念仏にしろ、いずれも私の力が及ばないときに出て下さるということです。だからいくら念仏しても自分の生きる支えになってこない」

■称えると唱える

ばあちゃん 「でも昔から、お念仏ひとつですくわれると聞いておりますが・・・」
ごんげはん 「先日、大和の親鸞で、南無阿弥陀仏の六字は『ここにあなたを救う如来がいる』という阿弥陀如来の『喚びかけ』の言葉それを聞き口に南無阿弥陀仏と称える(念仏する)とき如来の心が私に伝わり成仏が約束されるとあったが・・・」
ばあちゃん 「ああ、そのような言葉が掲げてありましたわ。どういうことですけ」
ごんげはん 「その文章に、唱えるという字でなく称えると書いてあるね。だから称名念仏というのだが、称という字は名のいわれに称う、つまり阿弥陀様の名のりの心と、称える私の心が一つになる、もっというと、私が称えるというよりも、念仏もうしてくれよという如来の呼びかけを聞くということです。たとえ私が忘れておろうとも、いつも如来様は呼びつづけなんですよ」
ばあちゃん 「ああ、なんと愚かな私・・・。願われ続けられているのに・・・勿体ないないことや」
ごんげはん 「たとえば、人生の悲しみの中で、思わずお母さんと呼ぶ子どもの声は、今は亡きお母さんのいのちが、わが子を念じている証拠です。いのちといのちが共に相呼応する、どうか本当の人生を生きてくれよという親の願いが、念仏となって、子どもの声を借りて名のり出て下さっているのです。しかも、そういう親の愛情に目覚めたとき、その願いに背いて愚かな生き方をしておった私が見えてくるときでもある。なぜなら万物は私のいのちと同根だからです」
ばあちゃん 「なるほど、うかうかと寝転んでおれませんね、親の願いに気づいたかぎりは・・・」
 

正信偈ミニ法話第1回
第1回松寺同朋の会2011年3月例会

■お経とお勤め
ばあちゃん 「正信偈はどなたさんが説かれたお経ですけ。お釈迦さまですけ」
ごんげはん 「浄土真宗のご開山・親鸞聖人です。お釈迦さまの説かれたのをお経というが、正信偈はお経とはいわんがです」
ばあちゃん 「ああそうか。赤色の本の表紙に『勤行集』〔ごんぎょうしゅう〕と書いてある」
ごんげはん 「お釈迦さまの説かれた、そのお経の心を、詩(うた)の形で讃えられた、それで偈というてある。偈は古代インドのガータの音写で、偈頌(げじゅ)ともいう」
ばあちゃん 「和讃もそうですけ」
ごんげはん 「いいところに気づいたね。いずれも作られたのは親鸞さまだが、正信偈・念仏・和讃というお勤めのスタイルは、本願寺8代目の蓮如上人からです」
ばあちゃん 「嫁にきたときから、舅さんに教えてもろうて、毎朝お勤めしておったおかげで、暗記しておりますちゃ。お勤めの後でおぼくさん(仏飯)供えてから、朝ごはんいただいたもんや」
ごんげはん 「お勤めせんかったら、朝ごはん貰えんかったのう。だから全国津々浦々どこへ行ってもご門徒の家庭からお勤めの声が聞こえたもんや。けど残念なことに、そういう声が聞かれんようになってしもうた。家庭教育の大事な、いのちを育む生活文化だったんじゃがね」

■正信について
ばあちゃん 「ところで正信ちゃどいうことですけ。何を正しく信ずるがですけ」
ごんげはん 「昔から題号は一部の総標(そうひょう)というて、その書物の内容が一言で言い尽くされておるちゅうことや。聖人みずから『正信念仏偈』というておられる。それを略して『正信偈』ちゅわけだ。いろんな受け止め方があるが、正信としての念仏の詩ということかな。だから正信というてもわたしの心で何かを信ずるということではないがです。聖人は、信は疑いなき心とか、疑う心なきというておられる」
ばあちゃん 「というと、信というのは疑わないということですけ」
ごんげはん 「そうではない、それやったら《イワシの頭も信心から》ということになる。だいたいわしら人間の心では、信ずるというても不疑というか、疑いの心や怪しいと思う心がいっぱいあるのに、それを抑えて疑うことを禁止するときに信じているよという場合が多い。たとえば《あなたのことを信じていますよ。だからわたしの信頼を裏切らないでね》というのは、本当は疑っている証拠や。人間は美しい心に騙されやすい」
ばあちゃん 「そういえば、子供たちにそういうて育てた覚えありますちゃ」
ごんげはん 「聖人は無疑といわれる。それは疑わないということじゃない。信ずる必要がないということです。間違いがない、その通りだと、明々白々たる道理にうなずくということです」
ばあちゃん 「そうすると正しいというのは、間違いないちゅうことですけ」
ごんげはん 「聖人は《正は唯なり二つならぶことを嫌うことばなり》とおっしゃる。正義とか間違いないということより、雑じりっけがない、純粋という意味やな。なにが雑じらないのかというと自力の心、つまりなにごとにつけても自分を飾り正当化する心(我執)が雑じらない、ただ念仏のみと決まったのが正信念仏です。『歎異抄』に《よろずのことみなもて空ごとたわごとまことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします》とおっしゃっておる」
ばあちゃん 「神仏にお祈りしたり願をかけたり感謝する信心とは、まったく違うがですね」
 

松寺真宗生活講座のお誘い
テーマ:心とからだの健康教室
孫「ばあちゃん、からだが悪いがに、なんで病気いうがけ」ばあちゃん「そうやな、昔から病は気からというとるのウ」孫「でも、からだが悪いがなら、病体といわんにやならんがになあ」ばあちゃん「だけど、からだが悪うなると、心までおかしくなるでなア」
孫「そういえば、僕、試験になると、胃が痛あなって、食欲がなくなてしまうから、心とからだは別でないがやネ」ばあちゃん「心の病はメスで切るわけにはいかんでのう。気という大きな、自然に治る力を素直に信じて、お任せすることも大事じゃ」

主催松寺同朋の会電話423−1848〕
第 1 回3月12日(土)午後2時〜4時
日程1:30受付
2:00おつとめ
2:15第1部心の健康教室
2:50休憩
3:00第2部 からだの健康教室
4:00恩徳讃閉会〔個人相談〕
お話し《第1部》寺院住職・坊守
《第2部》県立中央病院名誉院長辻政彦先生
テーマ《第1部》『今日のことば』より
《第2部》食事の工夫が健康の鍵
会費500円

[2011.03]

主催 松寺同朋の会
真 宗 生 活 講 座
テーマ:真宗門徒の常識そして非常識
再開第8回
11月22日(月)午後2時〜4時半
梅沢町3丁目松寺本堂にて
電話423−1848
お話し滑川市 正楽寺住職 土肥人史 氏
話題提供北島啓市氏「これからの寺は?」
松寺住職「仏壇のおわたましについて」
◎ごまんさんいとこ煮の接待あり
〔例〕お墓や仏壇に、魂を抜いたり入れたり
できるの?
〔先月のテキストより〕「きょう、山田君と遊ぶ約束をしました。いつまでたっても来ないので、呼びにいったらどこかへ遊びに行っていました。(略)僕もときどき約束を忘れることがあります」。
私の子どもが小学二年生のときに書いたある日の日記である。約束を忘れた相手を責めず「僕もときどき約束を忘れることがあります」と、自分も・・と受け止めてくれたことが無性にうれしかった。さらにその一文に傍点を打って「私もときどき約束を忘れることがあります」と、書き添えてくださった先生の心にも深い感動を覚えた。
松任市・松本梶丸著『生命のみえる時』より》

[2010.11]

主催 松寺同朋の会
真 宗 生 活 講 座
テーマ:真宗門徒の常識そして非常識
再開第7回
10月23日(土)午後2時〜4時
梅沢町3丁目松寺本堂にて
電話423−1848
お話し滑川市安田正楽寺住職
土 肥 人 史 氏
松寺住職長真寿
〔例〕位牌はいらない、法名軸か過去帖を
〔テキストより〕ごんげはん「過去帖は、もともと中国の儒教から出てきたもので、それには死んだ人の霊が宿るといわれておるんじゃ。知ってのとおり、お釈迦さまの教えには、死者の霊魂が変わらずに留まるといった霊魂観はどこにもない。つまり、位牌は真宗門徒にかぎらず、仏教徒全体には似つかわしくないものなんじゃ。だから仏壇のなかに並べたてたり、
ご本尊のお姿が隠れて見えないなんてことは、あってはいけない」おばあちゃん「ええっ、そんなら法名はどうしりゃいいがですけ」ごんげはん「帳面になった過去帖とか、仏壇の側面に掛ける法名軸といったものに書いて置いとけばいいがよ。要らない位牌はみんなわしに預けられ」〔テキスト46ページ〕

[2010.10]

主催 松寺同朋の会
真 宗 生 活 講 座
テーマ:真宗門徒の常識そして非常識
再開第6回
9月11日(土)午後2時〜4時
梅沢町3丁目松寺本堂にて
電話423−1848
お話し朝日町蓮通寺住職河村浩氏
松寺住職長真寿
話題提供『葬式は、要らない』を読んで
提供者松寺総代松平義麿氏
持ち物数珠・テキスト・筆記具・会費500円他
〔例〕お経は一番のご馳走?
〔テキストより〕ばあちゃん「やっぱり『亡くなった人には、お経が一番のご馳走』ながですけ」
ごんげはん「うん、確かにお経はご仏縁をいただいた時の要(かなめ)。きちんとおつとめさせてもらわんにゃね。だけど決してそれは亡くなった人への功徳・ご馳走としてのおつとめでちゃ、ないがやよ」
ばあちゃん「えっ?」
ごんげはん「『お経は浄土の生放送』ともいわれてね、仏さま(故人)から、わしらへのメッセージでもあるんじゃ。空しく過ぎない人生を送らせたい、との願いを込めた、仏さまからのご馳走ながや」

[2010.09]

主催 松寺同朋の会
真 宗 生 活 講 座
テーマ:真宗門徒の常識そして非常識
再開第6回
8月11日(土)午後2時〜4時
梅沢町3丁目松寺本堂にて
電話423−1848
お話し朝日町蓮通寺住職河村浩氏
松寺住職長真寿
話題提供『葬式は、要らない』を読んで
提供者松寺総代松平義麿氏
持ち物数珠・テキスト・筆記具・会費500円他
〔例〕お経は一番のご馳走?
〔テキストより〕ばあちゃん「やっぱり『亡くなった人には、お経が一番のご馳走』ながですけ」
ごんげはん「うん、確かにお経はご仏縁をいただいた時の要(かなめ)。きちんとおつとめさせてもらわんにゃね。だけど決してそれは亡くなった人への功徳・ご馳走としてのおつとめでちゃ、ないがやよ」
ばあちゃん「えっ?」
ごんげはん「『お経は浄土の生放送』ともいわれてね、仏さま(故人)から、わしらへのメッセージでもあるんじゃ。空しく過ぎない人生を送らせたい、との願いを込めた、仏さまからのご馳走ながや」

[2010.08]

主催 松寺同朋の会
真 宗 生 活 講 座
テーマ:真宗門徒の常識そして非常識
再開第4回
7月10日(土)午後2時〜4時
梅沢町3丁目松寺本堂にて
電話423−1848
お話し朝日町蓮通寺住職河村浩氏
松寺住職長真寿
持ち物数珠・テキスト・筆記具・会費500円他
〔例〕なぜ一膳飯を供えるの?
〔テキストより〕人間の欲望による環境破壊は、けっしてそれ自体を望んでやっているわけではありません。むしろ人間の幸福のために「良かれ」と思い、人間の知性・理性を信頼し、成してきたことが、結果としては滅亡の時を速めているのです。
私は、以前、〔迷い〕とは心のことだと思っていました。しかし親鸞聖人は「いずれの行もおよびがたき身」とか「愚身」「出離の縁あることなき身」と言われます。「身」を持っているかぎり迷いから離れることができない、その「身」を抱えた人間に、悲しみの心をもって「念仏もうしてくれ」と呼びかけているのです。『今日のことば』4月号より

[2010.07]

平成22年度
永代祠堂法要
とき6 月21日 ・22日 (月・火)
《21日》10時より(午後なし)
《22日》10時より(午後なし)
法話法縁寺住職稲垣一映師
どうぞお誘い合わせの上、ご参詣ください。
ささやかなおときを準備しています。合掌

[2010.06]

主催 松寺同朋の会
真宗生活講座再開
テーマ:真宗門徒の常識そして非常識
再開第3回
5月15日(土)午後2時〜4時
梅沢町3丁目松寺本堂にて
電話423−1848
お話し見義正覚寺前坊守見義悦子氏
松寺住職長真寿
持ち物数珠・テキスト・筆記具・会費500円他
〔例〕神様と仏様とどう違うの?

〔テキストより〕
主人とケンカしっときに主人が「お寺まいりばっかり一生懸命したって、死んだ長男が帰ってくるか」っていわれたとき、私、思ってもみないこと言ってしまったの。
「そんな、死んだ死んだって言わないで!!(中略)
あの子を死んだって片付けないで!!死んだって片付けたら犬死になる。違う。あの子は私たちにね、何かを教えようとしていると思うの。だから、何を教えようとしているのか、それをお寺へ聞きに行っているんだから」って。そういうようなこと言ったの。そのことにきづかされたの。〔北海道好蔵寺門徒〕

[2010.05]

主催 松寺同朋の会
真宗生活講座再開
テーマ:真宗門徒の常識そして非常識
再開第2回
4月10日(土)午後2時〜4時
梅沢町3丁目松寺本堂にて
電話423−1848
お話し見義正覚寺坊守見義悦子氏
松寺住職長真寿
持ち物数珠・テキスト・筆記具・会費500円他
〔例〕仏壇やお墓の魂入れって可能なの?

〔前回より〕●わたくしたちは普段、当たり前だと信じている自分の人生のどこかに立っていないと生活していけないのですね。しかし、そういう日常の生活感覚を問いなおし、わたしは何を「よし」として生きているのだろうかということを問うことが、こういう学習会を開く大事な意味だろうと思います●それには、お互いに「わたしはこう思います」ということを表現しあうことによって、確かめられると思います。「ああでもないこうでもない」と遠慮しないでワイワイ言いながら続けていきたいものです●ご参加をお待ち申し上げます。合掌

[2010.04]